2月 研修会〔正像末和讃講義〕
本日は7名が聴講しました。

以下、講義の抄録です。
「愚禿」の言葉は、『六要抄』では卑謙の辞と理解しているが、相伝教学では、愚禿は本願の正機、実機。化法の非器が如来の正機。今日の我々が本願によらなければ救われないことを、聖人が身をもってお示し下されたのが「愚禿」の名告りである、と受け取っている。
師資相い伝えて信機の道に入る。
「まず能化・所化を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、今師御相承の口伝にはあいなないはんべれ。」(『改邪鈔』 聖典694)
我が身を悲嘆することも、真実の教えを聞くことを通してしか、その気づきは生まれてこない。
曽我量深師の言葉(趣意)「自分があって、経典を読んでいた。こうも読める、ああも読める。 読み行くうちに、経典が自ら叫ぶ。経典中に声あり。」
その名号を聞く。(聞其名号)
正信偈がわかれば大経がわかるように、親鸞聖人はお作りになられた。
聞くことを忘れて勤めるようになると、本末転倒。
今回が最終講義の予定でしたが、和讃の解説が少し残ってしまいました。
続きは5月15日にご講義をいただくことになりました。
(投稿 池田)
by osaka_jundo | 2015-02-03 23:48 | 研修会